昭和52年06月08日 朝の御理解
御理解 第16節
「無常の風は時を嫌わぬというが、金光大神の道は、無常の風が時を嫌うぞ。」
ともう運命だ助からない、例えばそう言う様な場合でも、その運命が良い方に輝かしいものに切り替え展開していくという。もう寿命だと言われた寿命でも、そこまでいうなら無常の風が吹いてきておっても、それを向こうへ吹き返すほどしの力を持っておるのが、金光教だというわけなんですね。所がそうまぁいうならば、奇跡というより他にないような、あのおかげをこの頃の金光教は頂けなくなった。
そういう働きが現せなくなった。そういう原因がどこにあるかと。取り次ぐ者これは取り次がれる者、矢張り両方にその責任を私は感じなければいけない。教祖の神様はこういう信心すりゃ、こういうおかげもお徳も受けられるぞと教えておられる、それがほごになってしまう。私共はどこまでも、だから金光大神の言われる事を実証していく、いわゆる実証者にならなければならない。
確かに金光教の信心は、無常の風に時を嫌わすほどしの力を持ってるんだと言う事を、銘々が頂いて初めて真の力ね、所謂信心の確立がでけるのです。ね、その原因がどこにあるかというと、昨日「金光青年」が本部から出ております、青年会の雑誌です。ね、鹿児島の行徳先生が書いておられる、「座る」という題で書いておられる。第一金光様の先生が、座ると言う事の中に、信心を生み出しきらなくなって来た。
これはまぁ自分の体験だけれども、もう御結界に座ると言う事が、一番最高に信心姿勢を作る事の為に、一番おかげが頂けれるんだ。にも関わらず御結界を軽視する疎かにするから、自分の信心姿勢すらも確固たるものに成って来ないと言う事を、まぁ色々書いておられて。はぁ中々分かっておられるなぁと、本当の事がやっぱり分かっておられる、信心がいわば出来ておられるなぁとまぁ私は関心し、私自身も実はそういう風に感じておりましたからまぁ共鳴をしたわけです。
最近の状況を見て感ずる事は、学習的教師や経営者的教師が、段々増して来ているように思われる。その事は座る事の大切さと、その中身を次第に見失って行く事になるのではなかろうかとあります。座る事の大切さ、御結界の働きを現して行く事に、いわゆる御結界に、こうやっていうなら根が生えたように座らせて貰える、貰うと言う事が最近の教師には段々薄くなってきた。そしてえまぁいうなら教学的な、ね、頭の信心になってきた、頭でっかちになってきた。
学習的教師と言っておられるね、次には経営者的教師と、ね。御商売を経営する、いうならこういう経営方法があるんだと、お客さんを大事にしてこうしてあぁして、ね、商品は安く仕入れて、安く売ってと言った様なです、ね、そういうそのう経営者的な教師が多くなった。もうまさにその通りだと思います。ね、そこでですんならこれ合楽の場合なんかは、んなら界が一時でも空くと言う事がない。ね。
朝の5時から夜9時の御祈念終わるまで、御結界は空く事がない、ね、成程おかげを頂く筈だと言う事になる。ね、そこで今度はおかげを受ける方の側の信心としてです、ならおかげを受けるけれども、ならお取次ぎをして下さると言う事は、おかげだけを取り次がれるのではない、信心を取り次がれるのである。果たして信心が、どれだけ信心を頂いて助かっておるだろうか。昨日のご理解を頂いたら、どれだけ自分の心の中に、光を頂いておるだろうかと言う事になるのです。
それはどう言う事かというとね、お話を頂いてもその話を、自分の都合の良いようにするからだと言う事になるのです。ね、割り切って考えたりね、自分の良い様にするから、いうならば、金光大神の言われる事を、教えておられる事を、確かに金光大神は本当な事を教えてある、嘘を教えておられないと言う事の実証者に、私共がならなければならないように、取次ぎの教師もまた、金光大神の教えをひたすらに頂き抜かせて頂いて、金光大神が言われる通りのおかげを実証していかなければ。
まぁそういう意味で、合楽の場合は金光様が言っておられる事を、そのままに実証しておるわけです私自身。そこでんなら皆さんもです、ね。親先生が言われる事を素直に聞いて、そして精進させてもろうて、親先生は嘘はおっしゃってない、こんなにも間違いないおかげが頂けれるんだという、んならば大坪総一郎の言う事の対する実証者になって貰うために、皆さんが私の言う事を聞かなければいけないと言う事になります。中々言う事聞きませんですね、
昨日私総代会にお話をした事でしたけれども、10年祭10年祭という掛け声だけで、こうまぁそのまぁ信心が勿論、基礎・土台になるのですから、信心のんならば、10年祭に迎えるに相応しい信心を一段と、進めていかなきゃならない。色々言われているけども一向に進まない。私まだようく知りませんけれども、文男先生が受け今度、記念祭ついての受けもつ、受けておるまぁ部門でしょうか。装束、装束の新調をする事やら、例えばご神具の購入とか、修繕とかと言った様な事を受け持っております。
もうこの人はもういち早く、もうそれを先ずやりますですね。もうさっともう電話を掛けて、例えばこの御簾を注文する事なんか、もういわばあのこの前の、春の大祭に間に合うように作ってきた。いくら言うても言うても、もうそれもうそのつきっきりで電話をかけたり、手紙を出したり致します。そしてもう寸法でも間違いはいけない、もうそう言う事も、非常に几帳面です。
それで前の御簾を取り付けさせて貰うのでも、もうそれこそ自分が率先して、あの御簾あれは青年会で、洗う事になっとりましたけど、やっぱり自分が出てきて、一緒にやってますけん。いうならばあのこの布をとって、そして奇麗に洗い上げて、所がその中に、竹に虫がついてる所がる、そこにその京都の御簾屋に、こないだ京都に行きましたから聞きましたけれども、それは御簾屋でも修理がでけんという。
今度もうあちらへ行ってから、おかげ頂きましたちいって、帰ってきて言いよりましたが、この御簾のこの布をつけるのは、もうご婦人でしたら、もう誰でん出来るだろうと思った所が、そういう風な付け方をしたんじゃ、こう御簾が曲がって来るんだそうです。それであのうあちらの御簾製造の所でそれは4.50万も掛るんです、古いものを洗い上げて、また御簾をつけるだけで、それでお宅の方で洗ろうてしなさったらどうですか。布だけが17万も掛ると言われた布が。
だからその布だけを買うてって、お宅でされたらそれだけで上がりますよ、ちゅうて教えてくれたから、そうする事になったけれども、そのう向こうで今度いっぺん、あのう工事を見せて貰った。所が中々簡単な事だけれども、やっぱ専門家でなからな出来ないと言う様な所を、ここは玄人の仕事じゃから、素人には教えられんと言うたけど、「そげな事があるもんねあんた。
あんたが作ったちゃから、あんた方のしかもあん店で、ならそっちにせろち言うたからもう布も買うて、こちらでしとっとだからと言うてのですじゃらというて言うたから、もう教えてくれたそうです。それを習ってきてる。で昨日は1日掛で、その係りの嘉郎さんと、信者さんと文雄先生と3人で1日掛で、その御簾屋でもしきらんという御簾を取り替えて、ちゃんと作っとるです。ね。
もうこりゃぁもう本当にね、私はあのう桂先生が言う、桂松平について踊るものには徳をやるとか、おかげをやるとかと仰っておったという話ですが、あのう大坪総一郎が言う事について踊れる人でなからにゃ、おかげ頂かんです。ここではですね。今度もあちらに行って、もうあの装束屋の事から、何からかんやまで、こちらでちゃんと詳しく寸歩まで計って、もうそれこそいき届いた事です。だからその自分が言われておる責任と言う事を、例えばもう果たすと言う事に、一生懸命なるです。
はぁもうあっとさっという間にでけない事も、いくらもあります。目の中に指を突っ込むように用意できんから、この事は準備しとかなきゃいけません、この事は早よ取り掛からなきゃいけませんよと、私が何人の人にある事を言って置く様な事を言っておりますけども、「はいはい」というだけで、いっこうに乗り出そうとしない。ね。例えばここの御造営の時に、この御神前のこの下だけを、もう清掃にも清掃して、あの玉砂利をもうそれこそ一人でするようにしたのも、文男さんでしたね。
だからそれに何人かの人がついて致しました。文男さんのおかげで、この御神前の下だけはもうそれこそ極めた上に極めた石がずっと誣いてあります。そう言う所にね非常にその密のあるものを持ってますです。ね、いうならば親先生が言おうとする事、いうなら痒ゆいとこに手が届くようにやって行くですね。この頃の記念祭であのやっておるのは、まぁね皆さんが手を引いた訳でもないだろうけれども。
誰も手を出さないので例えば、霊園の購入には本当に久冨正義正喜先生が一人で何からかにまで、もうそれこそあのう買う事から、役所の交渉の事から、もう何からかにまでお一人でやってます。まぁ文男先生、正喜先生の事だけを言うのじゃないですけれどもです、ね、だからおかげを頂く人はです、いうならば言う事を聞くです。こりゃもうとにかく、生活においたもです忙しゅうしてと、ね、けれどもその誰だってなら、正義先生でも文男さんでも、それこそ大変な忙しい仕事をしてますよ。
けれどもその事だけには、ピシャーとそのんなら昨日も朝から夕方まで、その時間をもう京都から帰ってからですから、恐らく家の仕事がつかえとるでしょう。けれどもやっぱそれは先にやってしまおうとするような精進。矢張りこれは見習わせて頂くべきだと私は思います。でなかったらね、おかげは頂かんです。ね、自分の都合の良い事、自分の都合の良いように教えをする。
またはドライに考えて、教えを右左にする。こりゃ信者のですね、お取次ぎの先生というのは座ると言う事に、いうならばここは信心のいうなら正念場と言う様な頂き方をする先生が少なくなってきた。そしてその経営学とか教学的な事だけを勉強して、どんな風に言うたら信者が集まって来るだろうかと言った様な事ばっかりを考えておる。集まって来ずにはおられない、その基である信心を高めようとしない。
でそこでそのお取次ぎを頂いて、そんなら合楽の場合には、私が金光大神の言うておられる事を実証していっておる。なるほどおかげを頂いて見せておる。だからそれはもう、親先生の専売特許といったような言い方を、思い方をせずにです、その実証しておる私の信心を皆さんが、今度は実証して下さらなければならない。ね、「親先生は嘘は仰ってない」という実証をしていかなければいけない。
それは皆さんがそのままおかげを頂くと言う事でもあるのですから、それには私の言う事を、右左にしないで言うことを聞かなければいけない、もう少しと言うなら、痒いとこに手の届くような、行届いた信心をしなければいけない。はぁ毎日毎日終日参って来るというだけが、行届いた信心じゃないのです。その教えをどう頂くか、どう誤魔化し半分の生き方から、本当の生き方になろうと努力するか。
どうぞ今日も1日ね、神様の御心にかなう1日でありますようにと言う事は、そのまま親先生の心にかなう1日でありますようにと言った様な信者が、非常に少なくなってきたからという風にも言えるんじゃないでしょうか。ね。鹿児島の先生が言っておられるね、最近の教師は一番大事なものを疎かにする、いうならそれをおかげを受ける信者の方も、先生の仰る事を神の一言としてと言った様な、慎重な頂き方をする人が段々少なくなってきた。そこでそんなら、おかげは頂いても信心は頂けない。
いうならば心はいつも闇であると言った様な、光も何も感ずる事のでけないような信心になってしまったのでは、金光大神の道は、無常の風が時を嫌わす程しのおかげを頂いておりましても、ね、そういうおかげだけの信心に縁を頂いておりましても、それをただ縁を生かす事が出来ない。ただ行当たりばったりのおかげを頂いていくだけ、あの世に行くときに何にも持ってはいけない、と言った様な結果に終わるのじゃないでしょうか。それではいけん言うのです。
神様はおかげを頂かせて下さるために、あらゆるいうならば再度からです、ね、もう本当に信者氏子が取り付いてこにゃおれないような、いうならおかげも見せたり、又は話にもして聞かせたり、お知らせにも下さったりするのですけども、それを言うことを聞かなかったら、いかに神様のそういう働きがあっておっても、それをおかげにして行く事は出来ません。
昨日、林さんが毎日の様に日参されます、中々ご主人が反対されんけどもお参りならない。あの大きな建設会社に勤めておられたけれども、この頃自分で独立をされるというて、やっぱ御神縁を頂いて、あのうおかげを頂いたから、独立をされる事になった。もう神様のおかげといわねばおれないほどしに、もうあっという間に、置いた物をとるように、事務所も、もうそれこそ願ってもないような、丁度だいたい林さんは、甘木関係の信心を頂いておられた方ですから。
ちょうど甘木の親先生の奥城の前、甘木の市役所の横に手ごろの事務所があった。こうやって見上げるともう前に、親先生の奥城が見えるというごたる所におかげを頂いた。おかげで電話もとれた。もう本当にその順調な事ね。そしてその近所に今度は、農林省がまた移転してくると、もう建設業にあたるにしても、もうとにかく、まぁ信心のない主人でも、「やっぱお前がお願いをしてくれよるきょうかいじゃろう」とこう言うごたるにおかげを頂いた。
昨日、一昨日がその披露のために、沢山の人を呼んで、披露宴をどこかの料亭でなさった。万事お取次ぎを頂いて、お願いをしておられました。ところが中に一人もう飲んだら必ず酔狂まわす人がある。だからその人の事を特にひとつお願いしといてくれち。酔狂まわさんごと。それからその事もちゃんと一昨日お願いをしてらっしゃいました。それで昨日出て見えてからですもん。もうおかげを頂いてその人が何かの都合で来られんじゃったち。そしてその息子さんが出席してもろうた。
もう却ってうちの為にはその息子さんの方が良かったという、ほんにやっぱおかげ頂いたねち主人が喜んだち。所がこればいっちょお願いしとかないかじゃったと言う事は、その宴会が済んでしもうてから、もうこれは必ずそのそのう所謂はしご酒をする友達がおるそうです。それが主人にさっち引っ張り出して、四軒か五軒はしご酒してから夜中に帰ってきますと。
もう今日はこげなふうであれがずうと、はしご酒するもんじゃけん、お付き合いしてって、この事もいっちょお願いしとかないかじゃった、ちってまぁ言われた。それから朝方です、お夢を頂いておられる。「俺は今日面白いその、不思議な夢を頂いた」と、それがその、寅の子ば頂いたお夢ば頂いたち、どう言う事かお前、今朝から参るなら親先生にお届してくれちゅうことでした。ね、
もう皆さんはすぐ分るでしょう。私が寅年ですから。その寅年の私を親とする時、初めて寅の子になる訳です。ね、だから本当に口だけの親先生ではなくてです、本当の親先生といえれるようなおかげを頂いたら、寅の子には不自由をさせんという御理解でした。もう一番皆が願っておる所でしょうが。ね、寅の子と言やぁまぁおかげ、大事な物という意味でしょう。ね、お互いが願っておる本当に貧相病のない世界にも住みたい、もうお金に不自由する様なこったんないと言う様な願いを持っておる。
ためには先ず寅の子になれよと言っておられる。ね、こんなに分りやすう、例えば御神夢の中にですら、神様がむしろ手をつかんばかりに、信心してくれよというものを感じるでしょうが。しかも本人が一番求めておるものは、その寅の子なのです。ね、だからそういうおかげが頂けれる合楽は信心ぞと、んなら言うて下さっても、言う事をきかなければ、それこそ千及ばんと言う事になるのじゃないでしょうか。ね。神様の素晴らしい演出には、もう畏れいります。
だからその演出に私共が、いわゆる親先生を主役にして、んなら踊りがあるならば、お芝居があるならば、その端々の役にでも、いわば大坪総一郎について踊る者には、難儀はさせんと言う事にもなるのじゃないでしょうか。昨日は末永先生から、西岡先生宛てに手紙が参っております。もう長々ともうそれこそ、もう本当に感動せずには折れない様な、生き生きとしたおかげの事がついております。
丁度親先生からの御理解、公子さんがあれを送ってくれ、これを送ってくれと言うた時に、私が送ってやるなと言うてやった日の御理解を、もう先生は毛筆でずうっとそれこそお母さんの手紙ごたるとば書いて出しておられました。もうそれを読んでから親先生すみません、親先生すみませんて言って、公子と2人で読み終わらせて頂いとる所に、もうずっすり荷物がついたちゆう。
こちらから送った時に、荷物がようやくついたんです。しかも、これだけは大事なものだからと言うておるのは、もう開きもしてなかったと。初めて親先生の写真とか何かを殺風景のお広前に飾る事がで来ました。ね、他のはみんな検閲がありますから、みんな無茶苦茶にこしらえてあったそうですけれども、おかげでこちらから、あれを送ってくれ、これを送ってくれと言う様なものが、おかげでついたと。
それだけで何とも言えんでしょうが。ね、手紙がついた本当にあの、相済まん事じゃった親先生済みませんというて、手紙を読み終わった所へ、その荷物がどっさりついたと言う様なそのおかげ。神様のいかに素晴らしい演出であるかと言う事を、んなら末永先生があちらへ行ってからの事を皆さんが手紙でずっと知っておられますように、その演出にはもう畏れいってしまうです。
最近は本当にお参りが多くなって、あちらにはもうPL教が、日本の信者よりも、ブラジルの方が多いというぐらい、PL教が盛んだそうです。そのPL教の教師を10年間しとったブラジル人が参ってきてから、夫婦でおかげを頂きよるそうです。ですからだいたい信心のことを、一通り分かっておるわけですよね、それにいうなら、話は分んけれども、おかげびっしりと頂きよるけんで、もうたまがってしもうとるというわけです。そういういうならば不思議な働きもです。
んなら私の言うておる事を、親先生が言うておられる通りに、内の修行生には決して苦労はさせんというふうに、2年も3年も食うや食わずと言った様な事はさせんと言うておられたが、本当にあちらへやらせて頂いて、親先生の言われる通りのおかげを御比礼を、いや私が言うておった以上のおかげを頂いていっておると言う事なんです。と言う事は、いかに末永先生がここに10年間の修行の時にです、私の言う事を聞いておったかと、皆さんがあれの信心を思うて頂かなきゃならんのです。
もうこの人は言いつけたらすぐやるです。言う事を聞く訳です。ね、そりゃ右の足をあげなさいと言う時に左の足を上げる事もありますたい。けれどもそのあげる素直さが素晴らしいです。ね、だから言うことを聞いておる者として、神様がもう本当におかげを用意しておって下さる。神様の演出も素晴らしいが、その演出の中にある私共一人ひとりがです、つまらん役ではなくてです、本当にいうなら主役のね、いうならば働きに順応していけれるような生き方。
そういう信心がね、教師の方には座ると言う事に、ここを正念場としないと言う事、だから今日は、信者の方の側としてはです、先生の言う事を聞かないと言う所に、おかげは頂いても、ね、いうなら無常の風に時を嫌わすほどしのおかげが、日々の信心生活の中にです、頂き現せる様なおかげになって現われないと言う事になるのでないでしょうかね。皆さん本気でね、私の言う事を聞けと言う事はです、もう決して皆さんに、火の行水の行せろといってるのじゃないですから。
自分も楽しゅう嬉しゅう、しかも愉快になってくるほどしのことしか言ってないのですから。勿論そこにそれを頂いて精進の心がなからんなら出来るこっちゃありません。そしてそれで右左にしておいて、いかにも右左にしとらんごたる顔をしてお願いをする、おかげは頂いても信心の光は頂けない、昨日の御理解からいうならね。その光が無しにはです、ね、自分の周囲に潤うて来る様なおかげにはなってこんと言う事です。
金光様の御信心はこういう、それこそ無常の風が時を嫌わすほどしの力があり、またそういう働きが頂けれるという信心に縁を頂いておってもね、そう言う事はいうならば、ね、自分どんには関係がない様な事、そげなん奇跡的なおかげとか何とかと言う様なおかげは、もう却って低級視するような向きが、頭だけで信心を覚えたり、経営方法だけをいかに上手にやっていっても、そうした生きた働きに触れる事も、現す事も出来ぬと言う事で御座います。
どうぞ。